例えば過去の出来事を変えることができるとしたら、それとも変えることはできないのか

 誰もが、おそらく何かしらの言葉を使うことができる人々がみんな持っているであろうモノ。今の自分が経験したあらゆるモノ。そして一度は戻ってみたいモノ。あなたにとって「過去」とはどういったモノでしょうか。歴史を学ぶことと過去を学ぶこと。同じなようでどこかが違うような、生きている以上、その後ろには「過去」というモノはついてきて、僕らの「今」は「過去」の積み重ねで成り立っている。なんだか言葉にしてみると難しいですが、こういう存在が「過去」と呼ばれるモノなのかもしれませんね。

 

 「過去」があって「今」がある、という考えは、なんとなくわかるし、納得できるようなモノではありますが、どこか腑に落ちないというか、なんだか引っ掛かりを覚えてしまいます。「今」の積み重ねが「未来」になる、という考えも同様、なんだか違和感を感じるのです。例えば、「過去」に両親がいたから「今」自分は生きている。ということは納得できます。でも、極端な話ですが、全てを遡った時、「地球」が誕生したから、「今」がある、と考えることになります。でも、そうした「時間」の経過による「過去」という考えは、僕たちが「時間」という考え方を生み出した時から、本当に変わってないのでしょうか。そもそも、地球が誕生した時というのは、「時間」なんてモノは存在したのでしょうか。変なことかもしれませんが、これって重要なことだと思うのです。だって、僕たちは当たり前のように「時間」というモノを使って「過去」「今」「未来」という存在を生み出していますが、そもそもその「時間」ってなんなのか、それって絶対に変わることはないのでしょうか。

 

 頭が混乱してきましたね。まあ、「今更何を気にすることがあるのか」、「ただの考えすぎだ」、なんて言われてしまえば、そこまでなのですが、それでも気になってしまったのです。何を持って「過去」とするのだろうか。「時間」ってなんなのだろうか。本当は「過去」も「時間」なんてモノはなくて、適当にわかりやすく区別するためになんとなく使っているだけなのか。

 

 僕にとって「過去」というモノは「変わっていくモノ」です。「過去を変えることはできない」ということは、当たり前かもしれませんが、結局、「過去」というモノは全て「意味の後付け」なのではないでしょうか。「過去」を認識するためには「今」が必要になりますよね。だから「昔はこうだった」なんて話したり、「歴史」を学んだりできるわけで、「今」とつながっている、つながっていないは別にして、僕らは「今」との関係で「過去」をみているのです。例えば、「受験勉強をした」という「過去」があります。ある時の僕にとっては「苦しかった過去」であり、ある時の僕にとっては「必死だった過去」であり、「過去」を思う時の都合、気分によってどう思うかは変化しているというか、どう味付けするのかが変わっているのでしょう。

 

 もちろん、「受験勉強をした」ということは、変わらないかもしれませんが、もしかすると、「ただ勉強しただけ」ということになったり、「自ら勉強をすることを強制したこと」というようなことに置き換わるかもしれません。それも結局は「今」次第ですね。もしかすると「受験勉強」という言葉がなくなってしまうかもしれないし、僕がその言葉を忘れるかもしれません。ただ「勉強」したことは変わらないかもしれませんが、それも見方によっては、「無意味なことをしていただけ」だったり「苦行をしていた」だったりになるのかもしれません。

 

 なんだか難しくなってきましたが、僕にとっての「過去」。それは「今」があって存在するモノなのです。そこには決まった思い出だとか、出来事なんてモノはなくて、全部「今」の自分の創作物であり、「今」を見つめるモノなのです。